34.「おくりびと」が示す死生観
2015.06.08
人が、亡くなる瞬間に立ち合うことが、医師の仕事の一つです。
医師は、ご家族が患者さんの周りを取り囲む中を呼吸が止まり心臓の拍動が無くなるのを確認します。
それを心電図モニターを見つつ、その波形が徐々に消失していく過程を追いながら波形が一直線になった直後、聴診器を胸に当てて心停止を確認します。
その過程は、あくまで避けられぬ運命を経る最後のセレモニーだと分かっています。
内科や外科などの命に関わる領域や救命救急に携わる領域の医師たちは亡くなる瞬間に数多く出くわし、その仕事を粛々と遂行します。
時間を元へは戻せない運命を命の最期の灯火である心停止まで見守るその瞬間はご家族はもちろん、医者にとっても居たたまれない心境です。
私は、そのような現場に脳外科医の宿命として数多く遭遇して来ました。
(そんな昔話をここでしようというのではありません)
亡くなられる患者さんのご家族にとって最期を看取るのは、慟哭の瞬間。
さらにその後の葬送は、親族の誰にとっても辛くもし可能ならば、できるだけ遠避けたい心境でしょう。
日常の生活では、年間の自殺者が3万人になった、とか、人殺しは誰でもよかった、などと人の命が軽んじられています。
そんな中で昨今、話題になっている『おくりびと』という映画は一人の人間の死が、日本の様式美としてどのように取り扱われているのかを私たちに再認識させてくれました。
主演の本木雅弘さんは、20代の頃にインドを初めて旅した時に目にした光景を語っています。
「インドでは、人が亡くなった後に野焼きされている周りを
多くの親族が語らい、子供達が無邪気に走り回っている。
生と死が、日常の中に溶け込んでいる国は、生き延びるという意味で過酷ではある。
でも日々の中で生死を共存する事によって同時に安心感も生まれているのではないか」と。
人の命をどのように悼むかを示してくれた『おくりびと』。
それは“人は誰に愛され、誰を愛していたか、どんなことで人に感謝されていたかを知る事でもある”と言われます。
それらを一つ一つ確認することで人は癒され安心感を得るのだろうと思います。
納棺師が、執り行なう諸作は、あたかも茶道や華道に通じる日本の様式美でありその一つ一つの動きに私たちの心は、癒されるものです。
一人の死の悼み方を教えてくれた『おくりびと』は命が軽んじられているこの時代だからこそ、世界の人々にも共感を与えた。
その共鳴によってアカデミー賞授賞式で外国語映画賞に輝きオスカー像を与えられたのでしょう。
私たちは・・・
人生の第一、第二コーナーでは、日常的にとても現実感のない人の死。
第三コーナーに差し掛かって実際に人の死を看送る“送り人”の立場となる。
そして
第四コーナーでは、現実として迫り来る自身の死を看送られる“送られ人”の立場になる。
死を看取る医師も・・・
臨終に立ち合う事が、日常の仕事だとしても一人一人のその後の様子やご家族の心情が、如何なるものなのかは自身が、葬送の経験がない限り思いを広げる事はなかなかできないのかもしれません。
『おくりびと』を通して人の死の在り方が、リアリティーに提示されたことは命が希薄な今の時代にあって生を輝かせる意義としてけっして小さくないと思います。
いくつものシーンが、私たちが持つ死にゆく人に対する共通の観念を揺り動かすため多くの人たちが、映画館に足を運ぶのでしょう。
ところが、私は・・・
予告で映し出された一つのシーンが、残像として脳裏に焼き付き未だ観る気にはなれません。
「亡くなった美しき女性が、丁寧に死化粧を施され、その遺体が棺へ納められる」
そのリアルな場面に感涙しつつも、過去の忘れ得ぬ情景が重なりとても映画館へ足を運ぶ気にはなれないのです。
でも・・・
いずれ年月が経った頃、一人自宅で DVD を観ながら静かに流れる涙によって満たされない曇った心が、少し浄化されているかもしれません。
そんな時が、早く来てほしいなあと。
さて今日は3月1日
暖かい春の光を浴びて桜を愛でる日も近し。
3月は、気分を変えて数日間で咲き散る桜花を慈しみたいものですね。
慈しむとは、大切にするということ。
桜の木の下で(あまり飲めないお酒で)この世の宴を楽しみながら散りゆく花鱗を、瞬く間にこの世を去った、彼の地にいる最愛の命と見立てて・・・。
2009.3.1