40. 職業と仕事
2015.06.09
4月は、下旬となり新緑が眩しい暖春の頃になりました。
この春、新たに就職した人は、今、どんな生活をされているでしょうか。
数週間が過ぎて少し慣れて来た頃でしょう。
私が、医師になった頃を思い出して「職業」と「仕事」について考えてみました。
どんな職業にも貴賤はないと言われます。
この社会が、いろいろな職業によって成り立っていることを考えれば当たり前のことかもしれません。
生活を営む上で必要な社会の底辺を支えてくれている人が、居ればこそ私たちの実生活が成立している。その事実は、忘れてはなりません。
その意味でどんな職業にも貴賤はないと思います。
若い人たちが、職業を選択する時まず最初にその職業に対する憧れが、動機となる場合が多いと思います。
その憧れとは
見かけのカッコ良さであったり・・・
収入の多さであったり・・・
やり甲斐の強さであったり・・・
(自身のことを述べるのは、気恥ずかしいのですが手塚治虫のブラックジャックが、医師への動機でした)
そんな単純な憧れが、大きな動機となって職業に就ければ、それはそれで幸せな職業選択です。
でも問題は、そのあとです。
憧れの職業に就いたあと自身が描いていた理想と目の前にある現実の大きなギャップ。
その狭間とは
日々の地道さであったり・・・
自身の非力さであったり・・・
将来の不安定さであったり・・・
しかし、そんな間隙を埋めるため喘ぎ苦しむその過程で自らの中に職業の本質を見出し立場に見合った倫理観が、長い年月を掛けて自身の中に育て上げられていくのでしょう。
今になって振り返ってみると、私が、医師になった頃、理想に燃えていた反面行動と判断、そして姿勢は、未熟だったように思います。
(その頃、私が主治医だった患者さんは、不遇だったかも・・・今更ながら、スンマセン
でも、全力でやっていましたので、不幸ではなかったと思いたいのですが)
私たちは、知識を基礎に、経験を積み、常識を身に付けていく。
年齢がいくつになってもその場における相応しい行動や正しい判断、そして美しい姿勢はけっして一朝一夕で完成されるものではないでしょう。
知識は、自らの努力で学ぶもの・・・それは、「自助」といってもいい。
経験は、お互の助けで重ねるもの・・・それは、「互助」といってもいい。
常識は、公共の教育で培われるもの・・・それは、「公助」といってもいい。
「自助」と「互助」そして「公助」
この三つの助が、インターラクション(相互作用)し合うことで化学反応しその職業に相応しい高貴な人間が、仕事を通して芽生え長い年月をかけて醸成されるのだと思います。
「職業」には、貴賤はない・・・。
でも・・・
その職業で行なった仕事の中味が相応しい行動や正しい判断、そして美しい姿勢であってこそ私たちは、仕事を行なった「その人」を尊び敬います。
だから・・・
職業の結果としての「仕事」の中味に貴賤がある・・・のだと思います。
仕事で一番大切なことは、目の前に広がる現実から目を反らさない realism リアリズム。
リアリズムとは、目の前で起っている出来事を重視するという現実肯定主義。
すなわち、現実を直視することと言い換えてもいい。
別の表現をすると、背伸びをしなくていいということ。
全てのあるがままを肯定することだと思います。
この4月、新しく仕事に就いた人は・・・
「情けない自分とたくましい自分」そして「弱い自分と強い自分」
相反する二人の自分と共存して伴に歩んでゆけばいい。
情けない自分になったら、たくましい自分が、励ませばいい。
弱い自分になったら、強い自分を思い出せばいい。
自分にとって損か徳かという基準で物事を判断する風潮が強い中で
その真逆を自分の基準にしたらいい。
仲間を助けて自分に損になることはない。かえって自分の喜びとなり大きな財産となる。
そう考えることで活路が開かれると信じたらいい。
そして、今、私が、医師という職業に就き、脳神経外科という仕事を通じて職業観として一番好きなフレーズは
“noblesse oblige ノブレス オウ゛リュージ”
=高貴なる人には、それだけの責任を負い道徳倫理上の責務が伴う
人は、社会的に役割が増せば増すほどその責任が問われる。
高貴なる人は、けっして偉ぶることなく自分が与えられた責任を全うする人。
社会的リーダと言われる人が、社会の牽引者となるために必須の人格です。
そんな倫理観の高い爽やかで清々しい人間が好き。
新たな年度が、始まったこの4月
・・・さりげなく、謙虚に、目立たぬところで、そんな一隅の人でありたいと思います。