48. 開業脳神経外科医の課題 ー見極めと繋がりー
2015.06.09
(神奈川県医師会報、平成21年7月号、我が開業奮闘記 寄稿文より、一部改変)
私は、脳神経外科医という仕事に勤務医という立場で20数年を過ごして来ました。
職人ワザとしての自分の技術で、三途の川を渡ろうとしている人を「ちょっと、アンタ、そっちに行くのは、まだ早いよ」と此岸に引き戻すその作業に、大きなやり甲斐と深い意義を感じていました。
テレビでは、スーパードクターとして『匠の手の脳外科医』の存在が、しばしば取り上げられています。
匠の手が、脚光を浴びるのは、二つの点でよい意義があると思います。
一つは、巷にいる他の脳外科医を、よい意味で刺激すること。
そして、もう一つは、同じ病で苦しむ患者さんを、僅かでも激励すること。
番組として、脚色があるにしても、そのようなナマの存在をテレビ画面で観ることで脳外科医の中に、そんなスーパードクターに憬れて日々の診療で自身のモチベーションを高める
“オッチョコチョイ脳外科医” が、世の中には必ず存在するはず。
そんな単純に、ついその気になってしまう(かつての私のような) “オッチョコチョ医” のエネルギーの結集によって崩壊しつつある医療の現場が、少しでも元気になればそれはそれで意義があるだろうと思います。
(がんばれ~、巷にいる多くのオッチョコチョ医よ)
もう一つは、同じ病に苦しむ患者さんが、一縷の望みを抱きその中のごく幸運な人が、実際に匠の手の恩恵を受ける。
その陰には、隠れた大勢の犠牲があるにしても絶望の淵にいる人からみれば、暗闇の中で指す僅かな光が激励となればそれはそれで大きな意義があるだろうと思います。
(くじけるな~、極淵に一人立つ求光人よ)
私は、そんな仕事を指向しつつ、力不足で “オッチョコチョ医”の憬れ を貫くことから事業を興すという夢へ転換していきました。
管理職でない只の一兵卒の脳外科医が最前線で現場の仕事をこなしながら開業の準備を進めるのは途方もない困難がありました。
でも、そこは、単純にも、ついその気になってしまう究極の “オッチョコチョ医” のエネルギーでさらに、今は亡き妻の日々の声援と、背中からの後押しによって途方もない困難は、凌駕されていました。
事業の根幹をなす本来の医療を推進する以前に 「人・物・金」を運営するため、膨大なエネルギーを要していることを実感します。
脳神経外科のクリニックを開業する場合「物」として・・・高性能の超伝導 MRI などの設備を導入すると総額数億円の借財となります。
それを私一人の力で運営することに、開院当初非常に大きな不安がありました。
その後「人」として・・・楽屋裏から大勢の応援、とりわけスタッフの多大な協力を得て「金」として・・・なんとか食べていけるだろうと思えるようになるには2年が必要でした。
この2年という短い歳月に、多くの人から支えられて来ました。
そのご縁に感謝しつつ、開業医とは、こんなにも「医療者として孤独」で・・・「事業者として孤立」しているものなのか・・・と思います。
しかし、自ら選んだそんな境遇も、2年も経てば、また新しい境地が芽生えて来ます。
「孤立した事業者」の中で「孤独な医療者」がどのように、人と社会に「貢献」できるか・・・とそして、今まで受けた恩恵を「恩返し」に替えられるか・・・と。
以前・・・
勤務医として脳外科医の本領は “手作業としての匠によって、人を如何に救えるか” でありました。
今・・・
開業医として脳外科医の課題は “口作業としての匠によって、人をどこまで救えるか” の見極めであろうと思います。
その口作業は、けっしてペテン師や詐欺師の匠であってはならない。
医師としての匠は、一言一言洗練された「言葉の重さ」であらねばならないと思います。
そして、冷静な疾患の見極めで、より身近なところで専門の異なる近隣の先生との地域連携さらに、遠方であっても、適切な医療を提供してくれる高次医療を行なう先生との医療連携
開業脳外科医の課題とは・・・
まさしく、『見極め』と『繋がり』であろうと思います。
私に与えられた役割をしっかり認識し開業脳外科医として、今後の20年間を、過ごしていきたいと思っています。
近隣の諸先生、高次医療の諸先生、どうぞよろしくご指導をお願い致します。
2009.8.9