61. 桜のしおり
四月、春が実感できる時候となりました。
桜の花は、関東ではいよいよ爛漫となる頃となっています。
私は、4月2日、突風が吹き荒む小雨模様の中を大学の入学式に、出席する機会がありました。
入学式に相応しい桜は、八部咲きで、つぼみがまだ固かったためか突風でも花鱗が、散らなかったのは幸いなことでした。
入学式には、新入生が6700人ほどとその家族、在校生や OB、理事や教職員などを含めると1万人以上の人たちが、大学に集結した模様です。
約30年ほど前、私が、入学した地方の小さな大学は創立間もないこともあって、総勢200人くらいの新入生を体育館に集めて厳粛というよりも、それはそれは質素な式典でした。
それと比較すると、歴史ある大学では、荘厳な式典が開催されその伝統の厚みに圧倒される思いでした。
昔、入学した頃とは比較にならない時代変革の中で歴史の重みを感じる大学のトップの祝辞は、新入生ばかりではなく私たち一般人にも大きなメッセージを与えてくれたように思います。
祝辞では、冒頭で次のように新入生へ語りかけていました。
「今年の大学新入生たちの生まれた1990年頃は
日本で65歳以上の高齢者は、人口1割を越えたところでした。
それが、今は、人口の2割を越え
新入生たちが、職業生活から引退する今世紀の半ばには
4割を越え、未曾有の高齢化に向って、社会構造が変質しています。
このような大変革の時代には
多くの局面で既成の概念や古い思想は通用しなくなります。
そこでますます大切になるのが、自分の頭で考える力と生き抜く力です」と。
自分の頭で考える力と生き抜く力・・・
この力は、新入生ばかりではなく学校を卒業して実社会にいる私たちにとっても大切な能力です。
いくつになっても、生涯鍛え続けなければ、錆び付いてしまうものだと思います。
そして、さらに続けて述べられました。
「自分の頭で考える力とは
自ら問題を発見し、その問題を説明しうる仮説を作り
その仮説をきちんと検証して、結論を導く。
事物の真の姿を実証的な学問を通じて理解することです。
そして、その理解に基づいて問題を解決していくことが
変質していく社会の中で、求められています」と。
問題点を発見し→説明し得る仮説を立て→正しいかどうか検証して→結論を導いていく。
この過程は、日常生活に役立つ、実証に基づく、論理的で合理的な実社会での活躍に必須の学問と科学の思考法でありこれこそ『実学』の基礎となるものです。
独立した一個人が、必要な知識を貯えて、身に付けたスキルを活用する実学は実社会でもっとも必要な力です。
それには、まず膨大な年月を掛けて、過去に確立された学問体系のプロセスを、追体験しその中から学んだ自明の真理、すなわち公理と今、眼の前にある現実世界との相違を克服する努力によって、培われるのでしょう。
祝辞の最後は、次のような言葉で締めくくられました。
「私たちは、新しく迎える学生を顧客だとは、思っておりません。
この大学に学び、卒業した後も、一人の独立した人間が
生涯を通じて学び合う力を持続させ、人生を閉じる時に
この大学に学んで幸せな人生であったと思える関係でありたい」と。
自己の判断や責任のもとに行動する剛毅の心を持ちつつ同時に他人もまた独立した個人として、尊重する柔和な心を持つ。
『独立自尊』を建学の中心思想にしながらさらに、教える者と学ぶ者の分を定めず相互に教え合い、学び合う『半学半教』を生涯の礎とした創立以来150年の教えは私たち一般者にも大切な精神を思い起こさせてくれるものでした。
入学式から数日たった後、新聞に次のような記事を見つけました。
拉致被害者の蓮池薫さん夫妻が、支援法による給付金を4月から辞退することにされたと。
ご夫妻は、帰国後、大学に学びながら翻訳業や執筆活動のほか職業に就かれており「自立」への希望を強めていたそうです。
これまでの支援に感謝するコメントも出されていました。
私とほぼ同世代の蓮池さんは、苦難の道にありながら一縷の光をたよりに、異国の地で生きて来られた。
帰国後、郷里の新潟で教え教えられる半学半教の環境の中で独立自尊への道を進まれた。
そこに、さわやか感、以上に人としての筋道を教えられ本来私たちが持ち合せていなければならない気骨を感じるのでした。
授業料無償化、戸別補償、子供手当てなどの今の国の施策は制度を必要とする人が、少なからずいることは事実だと思います。
でも、その現実を踏まえながら、このような施策が、無制限に施行されることによって将来、私たちの自立心を損なう結果となりはしないか・・・
無償を享受した者が、自らの頭で考え、自ら生きる力を減衰させてしまうのではないか・・・
と危惧するのです。
最近、日本人が、無くしてしまったものについてよく議論されています。
それは、いったい何でしょうか?
私は、その一つが「自立心」でありもう一つは「旬に対する感受性」ではないかと思います。
日本の四季は、変化に富み、私たちは、繊細で豊かな季節感を養ってきました。
春分の日や秋分の日は、自然を讃え、生物を慈しむ日であると同時に先祖を敬い、亡くなった人を偲ぶ日とされてきました。
桜や紅葉は、私たちの死生観や人生観に大きな影響を与えてきました。
これらの旬に対する感受性は、自立心を持った個人が、歳を重ねるに従って若い頃とは異なる色合いで、光沢を増しさらに、微妙な色彩を放ちながら輝くのではないかと思います。
私にとって、桜咲くこの時期に晴れの入学式に親の立場で出席する機会を得られたことは、この上ない喜びで、幸せな数時間でした。
「自己の判断と責任のもとに行動する剛毅の心
同時に他人もまた独立した個人として尊重する融和な心
生涯とも、相互に教え合い、学び合う精神
実社会の活躍に必須の学問と科学の思考法」
祝辞で新入生に語りかけられた内容は出席した他の大人たちにも大切な “しおり” になったと思います。
しおり(栞)とは、案内、手引き、あるいは入門書のこと。
読みかけの書物の間に挟んで目印とするひもの付いた短冊の紙片もしおり。
入学式で語られた祝辞は、文庫本に例えれば
大学に晴れて入学した新入生には・・・
19ページ目にそっと添えられた『桜のしおり』は入門(オリエンテーション)という章だったのではないでしょうか。
大学に入学して30数年の私にとって・・・
50数ページ目にそっと添えられた『桜のしおり』は道標(みちしるべ)という章でありました。
2010.4.8