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コラム

76. 美意識の本質と根源・・・「普遍的な美」とは何でしょうか?

2015.06.10
「美しい人」とは、私たちの周りにいる人の中でどんな人を指すのでしょうか。 「普遍的な美」とはいったい何か、この永遠なる命題に対して古代ギリシャのプラトン以来多くの学者が、論じて来ました。 美しいという言葉は、どんな事であれ、私たちが憧れをもって語られる言葉です。美しい容姿、美しい行動、美しい言葉、人から醸し出されるさまざまな所作は、美しければ多くの人に憧れを与えてくれます。また美しい草花、美しい庭園、美しい建物も天地がもたらした自然物や人が創作した造作物が、多くの人たちに感動を呼び起こしてくれます。 では、この「美」とはいったい何でしょうか。人はどんな美に憬れ、どんな美に感動するのでしょうか。プラトンの不肖の弟子と勝手に称する私が、「美しいとは、いったい何ぞや?」と無い頭をひねって愚考してみました。 美意識というのは、洋の東西を問わず、場所の地域性や時のはやりを越えた美しいものがあると思います。まずは建築物と建造物における文化と習慣の違いについて、海外と日本の違いから美意識の奥義を探ってみました。 海外の美しい建築物で一番象徴的な場所は、バチカン市国にあるカトリック教会の総本山サンピエトロ大聖堂だと思います。聖堂の正門にある大きなサンピエトロ広場は、左右に配された楕円形の回廊で囲まれています。 広場を囲むのは、ドーナツ状に並んだ数百本からなる回廊で柱の上から聖人像が広場を見守っています。あたかも大きく広げた両腕の中央に母なる教会を訪れた人々に両腕を差し出して抱擁しているように見せるための設計者の意図があるようです。 海外の美しい建築物の中では、フランスのベルサイユ宮殿にあるベルサイユ庭園もまた究極の美と称されるものでしょう。その庭園は、ベルサイユ宮殿の中心へ延びる央道に繋がる沿道を軸索として噴水や花壇が左右に配置されています。 フランス中の至高の芸術と最高の技術を集めたとされる均整のとれた庭園は、当時類をみない完成度の高さで王の権威を告げる象徴とされました。水無きセーヌ河から水を引き込み噴水を作り、造作された芝生は幾何学模様に整地されました。これは、王の権威が、誰よりも強く自然さえも支配している精神の黙示でした。 サンピエトロ大聖堂における「神の慈愛」とベルサイユ庭園における「王の権威」。この無形のものを世に誇示しようとする時、神と王の代理人たるその設計者は、その命を受けてどのような意図をもって美を造作したのでしょうか。 そのキーワードは・・・ 威容の象徴化である「スペクタクル(壮大さ)」とともに美の完成形といえる「シンメトリー(対称性)」です。 威厳で力強くあるべきものに対する勇姿の意味が込められたスペクタクル(壮大さ) 完璧で美しくあるべきものに対する憬れの意味が込められたシンメトリー(対称性) どこから見ても整っているこの形は、古来から完全の象徴とされ現在においても美の究極とされています。 ところで・・・ 4年前に行われた北京オリンピック開会式のアトラクションで孔子の門弟に扮した3000人が、活版印刷の巨大な活字群として登場しました。このシーンは、記憶の底に残っている人も多いことでしょう。 活字の一文字一文字は、あたかも海面の波がうねるように版面が上下することで文字が表示されました。最後に活字の上面が開くと活字群を動かしていたのは機械ではなく人の力であったことがわかります。 北朝鮮では、ロボットが演じるようなマスゲームが統一した国家の象徴として繰り広げられています。軍事パレードでは、軍人が真似の出来ない足を真っすぐ跳ね上げる行進をしています。 中国や北朝鮮の指導者たちが、思い描く美の根幹は、威容な完全を目指したまさしくこのシンメトリーを基調としたスペクタクルそのものでした。 これを見た時、私は、心の中で思うのでした。  (中国の劇団のみなさん、とっても大変でしたねえ   ところで、日当には、一体いくらもらってますねん?   あたしゃ、仮に日当が良くても、こんな演劇は絶対できませんな   北朝鮮の軍人のみなさん、お疲れさんでしたねえ   ところで、足腰には、一体いくら湿布を貼りますねん?   あたしゃ、仮に足腰が強くても、こんな行進は絶対できませんな) 以上の( )は、劇団と軍人に対する私のシニカルな哀切とアイロニカルな憧憬に満ちたつぶやきでした。 では、当事者たる中国劇団のみなさんと北朝鮮軍人のみなさんは、どう思っていたかと想像すると終了直後は達成したことによる高揚感に浸っていたことでしょう。またそれを眺めていた指導者たちは、「パーフェクト(完全)」であったことに満足してそこに美意識を覚えたに違いありません。 外国におけるこれらの根底を踏まえながら、次に日本の美に対する意識を考えてみます。華道や茶道、あるいは俳諧などの伝統文化、建築や美術における美は、西欧や社会主義国家におけるそれと異なるように思います。 日本を代表する伝統文化の象徴と言えば、まず最初に京都にある竜安寺の石庭を上げなければなりません。その石をただボーッと眺めれば、砂地を敷き詰めて帯目を付けた長方形の敷地に15個の大小の石が、一見無造作に5ヶ所点在している、ただそれだけの庭です。 でもこの庭は、その造作物の配置だけで完成するわけではありません。直線的にあるいは同心円状に正確な掃き目を付けられた砂地と点在する石。それらは見る者が、目を細めて眼前にある造作物の景色を眺め、さらに脳裏に蘇った自然の摂理で生まれた景色をそこに重ね合わせる。虚心に想像力が入ることによって、見る者の心の中でようやく完成する。そこに創作者の意図があるようです。 ある人は、白砂は大海原に漂うさざ波を、点在する石は海原から顔を出した巨岩を想像されることでしょう。私はといえば、白砂は山頂から眼下に広がる大雲海を、点在する石は、雲海から頭を出した山の頭頂を連想し、北アルプスの嶺峰が蘇ります。 日本の美しい建造物では、京都にある離宮の建物と庭園が日本美の極致と称されるものでしょう。床柱には、整形された角材ではなく大きく歪んだ自然丸太材が多く使われています。これは茶人たちが、自然を生活として生かそうとする心に他なりません。 また生け花を飾る時やお茶を点てる時には、素でありながら茶室全体の調和が保たれています。丸い釜を用いるなら水差しは角張ったものを使い、花瓶や香炉は空間を独占するような床の間の中心には置きません。 これは、重複や対称の威容を避けることで敢えて均整を崩し、簡素な生活で行為の本質だけを抽出して自然さえも癒合している精神の明示でした。 石庭における「自然の摂理」と離宮における「生活の実用」。 古来から自然災害が、多い日本の社会の中で災害と生活を共存しようとする時、摂理と実用の共生を目指す創作者は、どのような意図をもって美を造作したのでしょうか。 そのキーワードは・・・ 自然の摂理に背かない「シンプリシティ(素朴さ)」とともに生活の実用にかなった「インバランス(不均衡)」です。 雄大で畏敬すべき自然に対する虚心の意味が込められたシンプリシティ(素朴さ) 日々で機能すべき生活に対する実利の意味が込められたインバランス(不均衡) どこから見ても整っていないこの形は、古来からわびさびの象徴とされ現在においても日本美の極致とされています。 明治の思想家で日本の美術界に多大な影響を与えた岡倉天心は、このような特長を1906年(明治39年)にアメリカで出版した著書「茶の本」の中で次のような言葉で記載しました。  「真の美は   不完全な心の中で完全なものにする人だけが   発見することができる」と。 天心は、日本の美的感覚の本質は、「インパーフェクト(不完全)」と表現しました。 俳句は、完全に表現しない中に情緒が生まれ、日本画には余白や間に心が宿る。その本質が、インパーフェクトだというわけです。 プラトンの不肖の弟子と勝手に自称した私が、「美しいとはいったい何だろう?」と無い頭を捻って考えた結果、分かったことは・・・  外国における美意識の本質は、「完全」であり  日本における美意識の本質は、「不完全」であったと。 最後に・・・ 私たちの周りにいる人の中で本当に「美しい人」とは、どんな人でしょうか。 最近、隣国の中国、韓国、そしてロシアの諸国と領土を介した軋轢が、噴出しました。 私たちは、事の推移を見守るしかすべはありませんが、美意識の観点からすれば、領土の他にも守るべきものがあるように思います。 国が違えば文化が異なり、文化が異なれば美意識も一様ではない。それは文明の宿命だとしても長い歴史を経たその国あるいはその社会特有の好みは、時代を経るに従って誇張され独りよがりの完全な「排他的な美」に陥ってしまいます。今、世界の中にそんな醜い国が、如何に多いことかと思います。 領土を保全する目的を遂行する時、その言動には世界にいる人間のだれもが、美しいと感じる「普遍的な美」を日本人は忘れてはなりません。というよりも偏狭で「排他的な美」よりも幅広い「普遍的な美」を日本人こそが守らなければならないと思うのは、私だけではないでしょう。 私たちは、自然の摂理にかなったものを美しく、生活に資するものを美しいと感じます。「普遍的な美」にこそ「美の根源」を求め、より善く生きる日々を紡ぐ「美しい心ある美しい言葉と行動の人」になりたいものだと思います。 私は、老若男女を日常診療で診ながら、その人間観察の中から美しく粋に生きる老人の姿によって目指す人間像といずれは誰もが訪れる老人像を学ぶ9月17日敬老の日でした。

2012.9.17