コラム|横浜市青葉区の脳神経外科「横浜青葉脳神経外科クリニック」

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40. 職業と仕事

4月は、下旬となり新緑が眩しい暖春の頃になりました。
この春、新たに就職した人は、今、どんな生活をされているでしょうか。
数週間が過ぎて少し慣れて来た頃でしょう。
私が、医師になった頃を思い出して「職業」と「仕事」について考えてみました。

どんな職業にも貴賤はないと言われます。
この社会が、いろいろな職業によって成り立っていることを考えれば当たり前のことかもしれません。

生活を営む上で必要な社会の底辺を支えてくれている人が、居ればこそ私たちの実生活が成立している。その事実は、忘れてはなりません。
その意味でどんな職業にも貴賤はないと思います。

若い人たちが、職業を選択する時まず最初にその職業に対する憧れが、動機となる場合が多いと思います。

その憧れとは
 見かけのカッコ良さであったり・・・
 収入の多さであったり・・・
 やり甲斐の強さであったり・・・

(自身のことを述べるのは、気恥ずかしいのですが手塚治虫のブラックジャックが、医師への動機でした)

そんな単純な憧れが、大きな動機となって職業に就ければ、それはそれで幸せな職業選択です。
でも問題は、そのあとです。

憧れの職業に就いたあと自身が描いていた理想と目の前にある現実の大きなギャップ。

その狭間とは
 日々の地道さであったり・・・
 自身の非力さであったり・・・
 将来の不安定さであったり・・・

しかし、そんな間隙を埋めるため喘ぎ苦しむその過程で自らの中に職業の本質を見出し立場に見合った倫理観が、長い年月を掛けて自身の中に育て上げられていくのでしょう。

今になって振り返ってみると、私が、医師になった頃、理想に燃えていた反面行動と判断、そして姿勢は、未熟だったように思います。

(その頃、私が主治医だった患者さんは、不遇だったかも・・・今更ながら、スンマセン
 でも、全力でやっていましたので、不幸ではなかったと思いたいのですが)

私たちは、知識を基礎に、経験を積み、常識を身に付けていく。
年齢がいくつになってもその場における相応しい行動や正しい判断、そして美しい姿勢はけっして一朝一夕で完成されるものではないでしょう。

  知識は、自らの努力で学ぶもの・・・それは、「自助」といってもいい。
  経験は、お互の助けで重ねるもの・・・それは、「互助」といってもいい。
  常識は、公共の教育で培われるもの・・・それは、「公助」といってもいい。

「自助」と「互助」そして「公助」
この三つの助が、インターラクション(相互作用)し合うことで化学反応しその職業に相応しい高貴な人間が、仕事を通して芽生え長い年月をかけて醸成されるのだと思います。

「職業」には、貴賤はない・・・。

でも・・・
その職業で行なった仕事の中味が相応しい行動や正しい判断、そして美しい姿勢であってこそ私たちは、仕事を行なった「その人」を尊び敬います。

だから・・・
職業の結果としての「仕事」の中味に貴賤がある・・・のだと思います。

仕事で一番大切なことは、目の前に広がる現実から目を反らさない realism リアリズム。
リアリズムとは、目の前で起っている出来事を重視するという現実肯定主義。

すなわち、現実を直視することと言い換えてもいい。
別の表現をすると、背伸びをしなくていいということ。
全てのあるがままを肯定することだと思います。

この4月、新しく仕事に就いた人は・・・

  「情けない自分とたくましい自分」そして「弱い自分と強い自分」
  相反する二人の自分と共存して伴に歩んでゆけばいい。

  情けない自分になったら、たくましい自分が、励ませばいい。
  弱い自分になったら、強い自分を思い出せばいい。

  自分にとって損か徳かという基準で物事を判断する風潮が強い中で
  その真逆を自分の基準にしたらいい。

  仲間を助けて自分に損になることはない。かえって自分の喜びとなり大きな財産となる。
  そう考えることで活路が開かれると信じたらいい。

そして、今、私が、医師という職業に就き、脳神経外科という仕事を通じて職業観として一番好きなフレーズは
  “noblesse oblige ノブレス オウ゛リュージ”
  =高貴なる人には、それだけの責任を負い道徳倫理上の責務が伴う

人は、社会的に役割が増せば増すほどその責任が問われる。
高貴なる人は、けっして偉ぶることなく自分が与えられた責任を全うする人。
社会的リーダと言われる人が、社会の牽引者となるために必須の人格です。
そんな倫理観の高い爽やかで清々しい人間が好き。

新たな年度が、始まったこの4月
・・・さりげなく、謙虚に、目立たぬところで、そんな一隅の人でありたいと思います。

39. 平和と敬意が調和した日

4月10日は、日本列島が、暖かいほのぼのとした穏やかになれた日でした。
桜前線が、日本を南から北へと北上し、各地で桜が満開になったからだけではありません。
この日は、日本の象徴としての天皇皇后両陛下がご結婚され50年を経て金婚式を迎えられた日でした。

両陛下は、50年間の軌跡を振り返って皇居宮殿でのご会見で時折お互いを慈しむように見つめ合い、さらにお互いに感謝の気持ちを伝え合うように小さくお辞儀を繰り返されていました。

25年前の銀婚式では、天皇陛下は「努力賞」、皇后陛下は「感謝状」というお言葉をお互いに対して述べておられます。

この度の金婚式では、「結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えています」と述べられた際に時折声を詰まらせ涙ぐむような表情を浮かべるお姿に胸が熱くなった人も多かったのではないかと思います。

そんな報道を新聞やテレビ、雑誌などで拝見した時天皇家が、この日本に存続していて本当に良かったと思いました。
そして、両陛下のお二人が、お互いを慈しみ合うそんなお姿の会見に素直に暖かいほのぼのとした気持ちになれたのは、私だけではなかったと思います。

浅学な私は、天皇家の歴史や人間として存在、あるいは政治的な意義がどうなのかなどの難しい問題は全く熟知していません。

私が、知っている知識は・・・
今上天皇と称される現天皇が、昭和34年、西暦で言えば1959年の4月10日にご結婚され1989年1月に第125代天皇として陛下が即位されたこと。

そして他国の多くの皇帝が、権力闘争の殺戮の中で子孫を殺したり殺されたりしながら為政者として権力の最頂点に立っていたのに反して日本の天皇家の史跡は、“和をもって尊しとなす”を旨として権力を求めず穏やかな歴史を歩んで来られたこと。
・・・そんな簡単な知識しかありません。

 “和”とは、英語で表現すると Respectable with peace (平和と敬意)
 一言で言えば、 Harmony (調和)でしょうか。

永きに渡って権力の交替があっても天皇の権威が奪われなかったのは権力を求めず、常に権力よりも崇高な立場に立って権威を和をもって最上の価値として連綿と継承されて来られたからなのでしょう。

穏やかな一家族であられるそんな天皇家が、この日本の長い歴史上の変遷の中でも潰れず象徴として存在しておられることは、今、不安定社会にいる私たちにとって本当に有り難いことだと思う。

そしてそのことは、日本の誇りであり私たち精神のファンダメンタルな支柱であるとも思います。

もし皇室という家系が、今の日本に存続していなかったら日本の社会は、バラバラになっているのではないか、と思うのは私だけではないでしょう。

ところで・・・
為政者にとって権力を求める意志とは何でしょうか?
為政者が、自分ならばその権力をもって他の誰よりも適切に行使することができるという展望と裏付けを私たちに提示してくれなければ、為政者の意志に意味がないと思います。

一方で・・・
権力を求めない天皇家は、日本がどのような危機に際しても権力では替えられない不動の権威によって、私たちの底力を陰で支えてくれている。
そこには、皇室に対する長い年月をかけて培われた私たちの自然な敬意が基礎にあるからこそ意味があるのだと思います。

桜前線が、日本列島を北上し、世は春爛漫。
人々は、閉塞の憂さ晴らしにあちらこちらでお花見に繰り出してその宴もそろそろ終ろうとしています。

年に一度咲き誇り、あっという間に散っていく桜も十分味あわず今年も過ごしてしまった口惜しさの中で暖かなほのぼのした穏やかな気持ちになれた4月10日は地域の桜が一層華を添えて、平和と敬意が調和した日でもありました。

38. もう一つの EBM

EBM という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか?
この言葉は、医療関係者にとっては常識語ですが、一般の方には馴染みのない単語だと思います。
EBM とは、Evidence-based-medicine の略。
「証拠に基づいた医療」と訳されますが医療においては、科学的根拠に基づいて診療方法を選択することを意味します。

根拠に基づいた医療の発祥地は、アメリカです。
治療の効果や副作用、その病気のたどる経過、そして最後には結果がどうなったかなどの膨大な数の医療データが、論文として医学誌に発表されます。

医療現場から生産蓄積されたことが、再び治療現場に活用される制度がアメリカでは日本より整っているとされています。
治療法は、10年一日として変わらない分野もあれば、日進月歩で進化する領域もある。

それを医者は、常に自らの専門分野の情報を関連の医学誌から熟知していなければなりません。
これを怠って最新の治療を行なわず患者さんの容態が満足な結果に終らなかった場合訴えられることがあります。
訴訟国のアメリカの脳外科医は、それを想定して収入の相当な額を保険に回すそうです。

これを知った時、私は、ああ、日本人でよかったなあ、と思いました。
いつも面倒くさいことは後回し・・・
こつこつ勉強するのは大嫌い・・・
怠惰な生活でいつもボーと時を過ごすことが好き・・・
そんな(私のような)医者は、到底アメリカで生きて行けないでしょう。

では、日本の脳外科医は、どうなんでしょうか?
全ての脳外科医が、最新の知識と技術を持って最善の治療ができればそれに越したことはありません。
でも全ての脳外科医が、同じ方向に向いていなくてもいいのでは、とも思います。

 「毎日が前進、常に進歩、日々が改良」をモットーにした
 多くの人が尊敬する“神の手の脳外科医”が、世界には必要であれば・・・

 「毎日が同じ、常に停滞、日々が繰返」を日常生活にした
  多くの人が黙殺する“蟻の足の脳外科医”も、地域には必要なのでは・・・
と思います。

だって、そんな蟻足な脳外科医が、世の中にいなかったら目の前の患者さんが(実は私も)困りますから。
蟻足とは、ちょこちょこと細かく歩くこと。
行きつ戻りつしながら慌ただしく歩むこと。

頭が足りないそんな医者の EBM を補足するために数年前からそれぞれの分野の学会は、日常の診療に役立つ診療ガイドラインを出しました。
そこには、強く推奨される治療、行なうよう推奨される治療、根拠が明確でない治療などの記載があります。

この本を初めて手に取った時、私はこんな有り難い本が、あったのか、と思いました。
でも患者さんを前に治療を行なう時には、その通りにはなかなかできないものと気付きます。

 「強く推奨される治療」と脅迫されてもなあ・・・
 「行なうように推奨される治療」と激励されてもなあ・・・
 「根拠が明確でない治療」と突き離されてもなあ・・・

実際の患者さんを前に私の気持ちは、なんだか複雑になってしまいます。
EBM=Eevidence-based-medicine
「根拠に基づいた医療」は現代医学で最も尊重しなければならない視点です。
しかし、私は、もう一つの EBM を心に留めておきたいと思いました。

それは・・・
EBM=Experience-based-medicine

「経験に基づいた医療」とは不明確ではあるけれども、良心的に、分別をもって、現場で、経験に基づいた最良ではなくてもベターな医療を行なうこと。
「理論上の理屈」よりも「実際上の経験」が勝る時があると思うから・・・。

セオリーテック(理論的)に理屈を考える理系的論理とプラグマテック(実際的)に経験で捉える文系的感性を現場では、いつも持ち合せていたいと経験的に屁理屈をこねています。

37. 素朴なキーワード

日本の会社は、本社が外国籍以外は、どこも3月が決算期です。
経理担当の人や税務に関わっている人は、今が一番忙しい時期なのではないでしょうか。
(そんな方は、お疲れさまです、体に気を付けて下さい)

連日連夜、深夜まで仕事をして終電で帰宅し、奥様が駅までお迎えという家族も多いと聞きます。
経理や税務は、会社の業績に直接に関わらなくても縁の下の力として重要な職務を担っています。
会社の経営状態が、全てわかるためこの不況の中で業績が悪い会社では数字だけを追っかけていく仕事は、とってもシンドイものと想像します。

自分が頑張れば、その結果として数字が付いてくる職種ならば、まだ努力の甲斐もあるでしょう。
会社が、大きくなればなるほど、自身の役割りが見えにくくなるため数字を追っかける人は、もちろん現場や前線で働く人でもモチベーションを維持するのは、難しくなります。

溜め息混じりに会社の決算書を作る人・・・
あるいは、それらを元に会社の経営方針を決める人・・・
いずれの人たちも3月のこの時期は、時系列に並べられた数字を見て体調不良にならないように十分気を付けてもらいたいものです。

日々の診療においても会社の決算書のように数字を追いかける時があります。
診療費のことではありません。それぞれの個人の診療情報を数値化して時系列に並べその数値が、上がったの、下がったの、などと言っては患者さんと溜め息を付いたり、喜んだりする。

それは・・・
時系列に並べられた血液データの数値のことで、まさしく個人の決算書の如くコレステロール値や中性脂肪値、あるいは血糖値などが、悪化しているとこの数ヶ月の成績が、悪かったと、それらの数字を元に動機付けの目標と健康管理を行ないます。

ところで・・・
経営の本を斜め読みしてみると(実は、そんな難しい本をじっくり読んだことはないのですが)会社は、事業体である限り売上高や利益の「数字」と「目標」、そして「管理」などの言葉が、頻繁に出て来ます。

でも、今の世の中で会社の考える数字の目標が、達せられて管理が十分である企業は、あまり多くないと聞きます。
現今の社会の中で企業が存続できることが、事業の大きさに関わらず、如何に大変なことかは経済や経営のことなど、あまり分からない私でも十分に想像ができます。

そんな未熟な私が、原点に立ち帰って会社は、社会にとって、その存在意義やプライオリティー(優先順位)はなにか、と考えてみると「困難な数字と目標、そして管理」より「簡単な信念と目的、そして方向付け」の方がより大切で必要のように思われます。

あまり難しい事をゴタゴタ考えているわけではありません。そんな頭脳はありませんから。
ごくごく単純に生きていくために会社の「簡単な信念と目的、そして方向付け」とは何だろうと素朴に考えてみると・・・

 「信念」は、お客さまのために、すなわち“他者優先”であるし
 「目的」は、究極的に行き着くところは、“人世の仕合わせ”である。
 最後に「方向付け」はといえば、とにかく小さな行動を徹底して行う“実践力の発揮”である。

経営の基本であるこの素朴なキーワードはまさしく、個人にも当てはまる至言だと思うのです。

私たちは、自身も会社も、どちらもが、この世に継続して存続できるために「他者優先の信念で、人世の仕合わせを目的に、実践力で小さな行動を徹底して行なう人」でありたいと思います。

これは、会社にとっても個人にとっても原則であるのだろうけれども個々人の方が、より重要度が高いと思う・・・
なぜならば、そんな人の集まりが、会社を発展させて、社会を安定させるのですから。

36. 種を蒔く春

季節は、3月中旬となり増々暖かな日和が多くなってきました。
一日毎に気温が上昇するに連れて、木々のつぼみが、少しずつ芽吹くのを眺めていると成長する姿を確認する楽しみを味わうことができます。

春は、草花が、暖かい陽光を得て上へ上へとスクスク伸びゆく季節です。
春を英語で言えば、Spring スプリング。

スプリングとは、単純には、「バネ」ですがその中に、飛び跳ねる、とか、原動力、あるいは、飛躍、などの上昇への意味が込められており私たちの心と体に元気と活力を与えてくれる言葉です。

春は、私たち日常にとって、春夏秋冬が、また巡ってきた一季節ではあってもそこに内包されている飛び跳ねる原動力をさらなる飛躍へと継げる元気と活力にしたいものです。

ところで・・・
私たちは、毎年春になるとさらに上へと上昇するために「自身への種を蒔いている」でしょうか?

年齢を重ねれば重ねるほどに、身体ばかりではなく心も萎えていくほどに
昨年より今年が・・・、今年より来年が・・・
さらに向上するなどとはとても困難と思われることでしょう。

でも本当にそうでしょうか。
そして、実際にそれでいいのでしょうか。

脳の画像を何千、何万と多数例を診ている私にとって脳の断面の形態そのものは、その人がその年齢までに培って来た集積であると理解しながら必ずしも「脳の形態」と「脳の活動」が、正比例しないことに気付きます。

例えば・・・
年齢は、とても若く、まさしく弾けるような肉体をしてさらに頭の中もギッシリと中味が詰まった栗の実のようでも活動は、なんだか冴えない人がいます。クスんでショボショボしている人がいます。

一方では・・・
年齢は、高齢者で、まさしく朽ち落ちるような肉体をしてさらに頭の中も振ればコロコロと音がする鈴の中にある銅珠のようでも活動は、人々を魅了する人がいます。オーラを出してキラキラしてる人がいます。

この差は、いったい何なのでしょうか。
ショボショボと・・・キラキラの・・・違いは何?

歳を取るにつけて加齢現象にともなう脳の変化が、出て来ることはやむを得ないことです。
だから脳に異常があるか否かを判断する時には、あくまで年齢との相対比較。
厳密な判断基準などはないものの年齢と形態を相対的に評価することによって「この脳ミソ・・・問題あり」となります。

しかし、ここで言いたいことは、形態によって活動が規定されるのではないということ。
あの有名な物理学者、アインシュタイン博士は、素晴らしい頭脳を持っていながら脳そのものは、ガサガサしていたそうです。

そんな博士が、記念写真を撮る時に「笑って下さい」とのリクエストに応えてカメラの前で大きく目を見開いて舌を出した光景は長年培われた即座に対応できるお茶目なユーモアセンスの故なのでしょう。

アインシュタイン博士が、晩年まで興味が尽きなかった壮大な宇宙に関する「数学的自身への種蒔き」と「社会的他者への種蒔き」を絶やすことなく過ごしたことが、輝く源になったものと思います。

頭を振れば、鈴のようにチ~ンと音がしそうな脳・・・
頭を叩けば、銅のようにゴ~ンと音がしそうな脳・・・
そんな頭であっても人を魅了するセンスを持ち合せた老人は、素敵でカッコイイと思います。

春には、竹が節を付けながらスクスク成長していくように人も節目をしっかり付けることで次なる成長に進むことができる。

そこで節目となるこの春は・・・
歳が、いくつになっていてもスプリングという躍動ある節目の言葉を肥料として秋に収穫できる「新しい自分への種をまず一つ蒔いて」おきたいものですね。

そして、さらには・・・
自分のためだけに種を蒔くのではなく20年後に「人や社会に花が咲く種をもう一つ蒔く」よう心掛けたいものですね。

私たちは、幼き子であってもいずれは必ず訪れる老齢期に素敵てカッコイイ老人を目指して幼き頃から老後の準備を始めましょ・・・。

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