75. -巻頭言-(平成24年3月号月報)
今回のコラムは、横浜市青葉区医師会ホームページ「平成24年3月号月報 」に掲載
される予定の寄稿文「巻頭言」を医師会員に公開される前にそのまま転記しました。
(一般者は、青葉区医師会会員専用ログインから進入することが出来ません)
共生を目指して社会に資する地道な活動
古市 晋
平成24年2月20日、最高裁は、13年前の光市母子殺害事件に対して被告の上告を棄却する判決を言い渡しました。始まったばかりの幸せな家庭を奪われた日から13年にも及び闘った家族は、判決後の記者会見で「嬉しいとか喜びとかの感情は全くなく、厳粛な気持ちで受け止めている」という言葉を語っていました。
家族は、平成12年3月、地裁が無期懲役の判決を出した際に「早く被告を社会に出して私の手の届くところに置いてほしい。私がこの手で殺します」と涙をこらえながら記者会見で言い切っていました。家族を守ってやれなかった事への自責の念に苛まれ、人を殺すと公言した人間は、世間から恨まれて当然と思い込んでいた家族にその後多くの励ましの言葉が届いたといいます。長い間苦悩し続けた家族が発する数々の言葉と今回の重い判決を聞き、心の中で涙を流した人も多かったのではないかと思います。
司法の判断は、犯された犯罪に対して『証拠に基づく裁判』が、法律によって適正に運用される事で社会正義が、担保されているはずです。しかしその法律は常に不完全であって時代の変遷によって陳腐化し、あるいは置かれた社会の環境や人々の心の在りようによって運用が異なるのは、当然の理と思われます。今回の最高裁の判断も被告人の情実によって斟酌される部分があったとしても重い刑罰を排除する特別な理由はないとされました。
さて、私たちの医療の世界を考えてみますと、10年以上も前から『証拠に基づく医療』(EBM=evidence based medicine) という言葉が提唱されて来ました。その出自の背景は、多数を対象として無作為に出された平均値であり、ガイドラインやマニュアルとしてまとめられることで治療のばらつきの少なさに繋がっています。それが、疾患の治療方針と患者の治療効果に大きく貢献したと言われています。
ところが私たち臨床医が行う医療は目前の患者であって、その一人ひとりの患者は個人として心身一如の存在です。多数例の平均値的医療は、身体的疾患に有用な治療にはなり得ますが、心身を包含しなければそれだけでは医療は完遂しません。人間のゲノムが解読されたポストゲノムの時代にあって近い将来必ずやってくるであろうゲノム医療は、心の在りようを含めた personalized medicine が医療の中心になっているでしょう。
『証拠に基づく裁判』と『証拠に基づく医療』は、似て非なるものでありますが、心が通う人間が運用し、心身が一如の人間に適用されることに違いはありません。法律やガイドラインは、常に未完であって「疑いのない絶対な裁定」や「間違いのない安全な医療」などはあり得ません。それ故に私たちが行う医療は、集積された証拠に根拠を置きながら個々の患者を前に心身一如に依拠した判断が、個々の医師に求められている。そしてその裁量権が与えられている私たち医師は、諸行無常の中でその時代とその地域の環境に合った適切な医療を選択できる敏感度を研ぎ澄まし眼識力をより一層養う必要があると言えるのでしょう。
私たちは、所詮どこにでもある(どこにでもいる)路傍の“石(医師)”であるかもしれませんが、医療の片隅を照らすその“意志”には、路肩にある踏み石となっても央道に形成される医療の本質を見抜く力が不可欠です。その力は、私たちが日々歩む一期一会の研鑽で地道な実践を積み重ね、謙虚に「患者から学ぶ」王道で培うしかないのだと思います。
こんな観念的な医療理念を描きながら、先の最高裁が出した判断後に行われた記者会見で家族が述べていたことにも共感を覚えました。家族は「今は自分の生活を立て直しに懸命になっている。事件のことを考えずに生きるのは無理だが、これからはしっかりと家族を持って維持し社会に資する人間になろうと思う」と。最後まで感銘を受ける深甚な明晰さから凛とした地に足を付けた姿勢の尊さを教えられたのでした。
季節は、早くも櫻咲く3月弥生です。控えめな淡い色彩で澄み切ったほのかに香る櫻の花は、自然の摂理に従って春暖の候に蕾が膨らむ。そしてその花びらは風雨に負けることなく咲き誇ろんだ後、いずれ役目が終わって時が来ると潔く静かに散ってゆく。医師会会員の皆様におかれましては、青葉区の医療がさらに発展するようお互いに情報の密な疎通を行いながら、共生を目指して社会に資する地道な活動を伴に切磋琢磨し歩んで行こうではありませんか。
平成24年3月4日 記